国道8号線 親不知海岸

その6





↓↓↓親不知海岸の場所↓↓↓
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通行日 2006年11月4日
調査レポート


※レポート中の写真をクリックすると大きな写真(640×480)が見れます。


   日本初の海上IC 



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再び風波信号場跡に戻ってきました。
次なる標的は一風変わった高速道路のICを見てみましょうか。
写真中央右に見える構造物に登ってみると・・・




この密集度!!
崖と海の間にある僅かな平地に犇めき合う交通機関たち。
頭上が北陸自動車道、2対のレールは北陸本線です。
北陸自動車道は地上に出てきたものの、既に先達である
国道と鉄道にそのほぼ全てを使われており、
許された空間は僅かしかありません。
その結果選んだ場所は・・・海上!




海上に連綿と続く橋脚群。
理由は違えど、このように海上を選ぶしかなかった道と言って
思い浮かぶのは以前レポでご紹介した「大崩海岸」でしょう。
ここ、日本海側の親不知と太平洋側に位置する大崩海岸付近は
中央構造線(断層)が海に落ち込む場所であり、
それだけ地形も険しくなるのですね。





さて、そしてこれが北陸自動車道の親不知ICです。
パッと見た目は普通のICのようですが・・・




なんと信号が!
ここ親不知ICは海上に建設されている為に
一般的なICと違い、少し特殊な線形になっています。




構造を絵に描いて見ました。
おおよそ上図のような構造になっています。
実際の側道は図のように海側には出張っていませんが・・・

つまり
・富山側からやってきてICで降りる場合
・ICから乗って新潟側に向かう場合
の2つについては信号待ちをしなくてはならない構造です。
面白いですね(^_^;



   親不知・子不知の中継地点



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天嶮を抜けて比較的まとまった平地が現れます。
ここは外波川の河口にある外波集落。
この先、親不知駅を経て歌川の河口に広がる歌集落にたどり着きます。

ここ外波・歌の集落付近を境として、
市振からここまでの”天嶮”区間が「親不知」
ここから先、勝山までの区間が「子不知」と呼ばれています。

天嶮を抜けてきた人、これから天嶮に挑む人、
とりあえずは小休止。

国道沿いには道の駅もあり、現代においてもその役割は変わらないようです。



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集落内を通る、旧R8。
ちょっと分かりづらい写真ですが、ここでは先ほどよりも
密集度が高まってます。
理由はR8のバイパスが増えているからです。
こちら側から旧R8、北陸本線(複線)、
R8バイパス、北陸自動車道
と4つの”道”が並存しています。
これほど全ての大動脈が隣接して存在するというのもすごいですね。






歌に程近い場所にひっそりと佇む親不知駅。
味のある良い駅舎です。
しかし、同路線の他駅と違っているところは
やはりそのホームの狭さでしょう。
平地いっぱいいっぱいに本線や側線が余すところ無く敷かれており、
その結果ホーム幅が犠牲になっています。




側線の外側はすぐに海。
奥に2段構成で見えるのは、下側がR8バイパスで上が北陸自動車道です。
なんとこの区間ではR8も海上橋となり、
「親不知高架橋」「歌高架橋」の2本で海上を渡っています。

側線には保線車両が留置されていますが、
これは鉄・道両用の所謂「DMV」ですね。
うーん、なんかカッコいいぞ(^_^)
こういう車両が鉄←→道路に渡る様子を一度見てみたいもんですね。



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親不知駅の先で旧道は歌集落を横目に
ぐるっと回り込みながら現道に接続します。
北陸自動車道は線路も跨いで山の中に消えています。
そして北陸本線もこの先はトンネルによってその殆ど全てをショートカットしているため、
子不知区間においてはR8の孤独な地形との戦いとなります。

しかし、上り線として使用されている子不知トンネル(鉄道左側のトンネル)は
孤独だったR8の救世主となったことがあるのです・・・

と、それはまた後ほどとして
再びR8の廃止区間の探索と参りましょうか!



   駒返トンネル旧道



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これより子不知区間スタートです。
上の写真にも少し写っていましたが
典型的な”現代風”意匠となっている駒返トンネル。
歩道も完備され、毎日莫大な交通量をこなしています。

駒返トンネル
竣工 1993年3月 延長 538m




お約束どおり、このトンネル脇には封鎖されたゲートと共に
使われていない洞門が見えます。
トンネル脇には説明板があり、「駒返」の由来などが書かれていました。
以下、原文。

このあたりから洞川にかけて、
名勝・天下の険「親不知・子不知」の「駒返の難所」と称し、
古来、北陸道親不知浜往来の険難の一方の地として知られている。
 この「駒返しの難所」は、断崖が海に迫り花崗岩や石灰岩が崩れ落ちて、
旅人の往来を困難にしていた。
念仏岩、立岩、籠岩と呼ぶ古跡巨岩は、
良質な石灰岩として切り出され今は往年の面影がない。


その昔、聖徳太子が出羽の羽黒山に参る途中、
駒を馬子の跡見市兵衛にあずけて、ここから都に返した。
これが、駒返しの由来と言いわれている。

 又、木曽義仲が都に攻め上る時に、
愛用の名馬もこの北陸の波に進退きわまり、
ふるさとの木曽に返したことから、「駒返し」と呼ばれるようになったとも伝えられている。


ふむふむなるほど。
「その3」でちょろっと紹介した「籠岩隧道」というのは
この辺にあったようですね。
「切り出された」ということは隧道もろとも削り取られて、
出来た平地に今の洞門が建てられた、と考えると自然でしょうか?




ゲート前。
最近多い不法投棄対策なのか、ゲートには気合が感じられ
その高さもさることながら、崖側も念入りにふさがれています。





爽やかな秋の風を感じながら洞門へ向かいます。




洞門の入り口にはいくつかの標識と注意喚起の表示がありますが、
植物に覆われて見にくくなっています。
ブルーシートで覆われたものが見えます。
どうやら物置として使用されているようです。




駒返洞門内部。
色々な資材が山側に沿って置かれています。




ガードレールはこれでもかと言うくらいに錆びつき、朽ち果てていました。
石部で見たのとまるで同じ姿です。
この場所は石部と違って海から相当比高がありますが、
やはり海沿いに吹き付ける強烈な潮風がそうさせるんでしょうか。




少し進むと洞門はグッと狭くなります。
路肩が無くなるばかりか、さらに幅員自体が狭められています。
これは大型車には相当厳しい・・・
柱に描かれた注意喚起の為の黄色ペイントが
「改良が必要だ!」と言わしめているようです。

写真右側には「駒返3」のプレートが見えますが、
ここ「駒返洞門」はいくつもの洞門が組み合わさって出来ているようです。
石部のそれと同じく、それぞれ竣工時期が違うのでしょう。
そしてもちろんこの狭い区間は竣工が古い、と。
その鍵は狭くなった洞門の隅にありました。
(写真にマウスを乗せると位置を表示します)




そうです、銘板ですね。
達筆な字で書かれたこれによれば竣工は
「昭和参拾参年拾弐月竣工」
とのことです。
意外と新しい?





ぬおお!「方面および距離」と「おにぎり」だ!!
ここでdark超興奮状態に突入w




というわけで記念撮影www
しかし・・・とにかくデカイ!!
おにぎりですら人間の上半身がスッポリ隠れるデカさですよ?
現地ではとにかく「すげー」の言葉しか出ませんでした(^_^;

標識に管理標のようなものが貼られているので、
今でも管理されているんでしょうね。





洞門内部はやはり痛んでいました。
コンクリが剥がれ落ち、中の鉄骨がむき出しに。
そしてなぜか天井に蛍光灯が一本だけ付けられていました。
もちろん現役時のものではないでしょうが。





再び標識!
今度は旧青看タイプですね。
大きさも良心的(?)
近くには国道の証、キロポストも残されていました。





再び洞門が広くなるともう出口は目前です。
ここで古い洞門の柱を確認してみると・・・





やはりありましたね。
またも達筆ですw
「一級国(?)道八號線」でしょうか。
※昭和27年12月〜昭和40年4月までは
国道にランクがありました。





洞門出口付近にあった謎の建物。
側面に入り口がありますが・・・
なんだこりゃ??





そして出口。
向こうにはまた次の洞門が顔を見せています。
むこうは現役ですがね。
駒返トンネルの坑口もフェンスを越えてすぐ隣にあります。
こちら側のフェンスも厳重です。
ここで入り口に引き返すことにします。





抜けてきた駒返洞門を振り返ると・・・
標識オンパレード!
駐車禁止、追い越し禁止、屈曲注意、幅員減少、最徐行・・・と。
とにかく注意喚起がすごいです。
やはりトンネル化した最大の要因は
あの狭〜い古洞門でしょう。

ところで新しいプレートだと「駒返」となっている洞門名ですが、
銘板だと「駒返し」となってますね。
こっちが正解?





最後に洞門内部から無理やり撮影した外の様子をご覧頂いて
”駒返し”洞門の探索を終えるとしましょうか。
撮影の際、手がつりそうになりましたw
奥に見えるのは北陸自動車道の海上橋です。
ますます石部とそっくり・・・

次回は今回探索の最終地点、
子不知高架橋までの旧道を一気に駆け抜けます。



つづく


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