国道8号線 親不知海岸

その8





↓↓↓親不知海岸の場所↓↓↓
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通行日 2006年11月4日
調査レポート


※レポート中の写真をクリックすると大きな写真(640×480)が見れます。


   子不知高架橋と凶悪洞門 




今回探索の最終章、子不知高架橋へ向かいます。
厳重なゲートを越えたところでR8はここ、深谷洞門へ吸い込まれていきます。
(前回もチョロッと登場しましたね)
夕日に照らされて赤く染まり始めた洞門、
さて急がねば!



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深谷洞門の反対側へやってきました。
(写真はやってきた方向を振り返って撮影)
クルマが無理やりな場所に停まっているのはご愛嬌w
写真左側に見える洞門が旧道のものなのですが・・・





ここで図解。
図の左側から右側に向かって探索を行います。
子不知高架橋の本来の旧道はゲートの場所ではなく、
深谷洞門の途中あたりから伸びていたようです。
現在はゲート脇の位置までの旧洞門部分は埋められてしまっています。





旧洞門はこのように埋められています。
この先は図のように深谷洞門の途中に合流していたのでしょう。





深谷洞門と埋められた旧洞門との間を登ると
洞門の上に出ることが出来ます。
それにしても凄い景色だ・・・
写真の深谷洞門、クルマで通っていると何ら変哲の無い
普通の洞門です、しかしその外側は・・・
山側はほとんど直角に切り立った崖、海側もほとんど直角に切り立った崖。
この洞門が背負っている使命は計り知れないものがありそうです。
その使命が果たしきれるものなのかどうかは別として。

果たしきれなければ・・・

こう

なってしまうのでしょうか。

お、恐ろしや・・・





さて、それでは高架橋旧道の探索に入りましょう。
上の写真の地点から振り返ると奥には
高架橋と朽ち果てた旧深谷洞門が見えています。





高架橋と旧洞門を無理やりパノラマにて。

「子不知高架橋」
竣工 1987年12月
L = 422.5m

海上(砂浜)に7本の橋脚が打ち込まれ、
国道は一直線に対岸の洞門に吸い込まれています。
橋脚のスパンは最長で59.5m、最高地上高は30mもあります。

この橋によって打ち捨てられてしまった旧道・「子不知洞門」の姿とは?
早速洞門内に入ってみましょう。




外観からも異様な雰囲気を醸し出している旧道入り口。
洞門に入ってみるとその異常構造が良く分かります。





内部は太い柱によって上下線が分けられています。
そして決定的な違いはその幅員です。
山側はもはや絶望的に狭く、
洞門の壁と太い柱に挟まれている為、非常に圧迫感の高い作りとなっています。
上の写真からだとそんなに感じないかもしれませんが・・・







変わって海側。
こちら側は山側と違い、開放感があります。
その代わり洞門の覆いは道路幅の半分程しか無く、
残りは覆いのみが設置されていたようです。
上部にはその残骸と思しきものが朽ち果てながら残っています。



いよいよ柱区間が終わるようです。
通過して振り返ってみると・・・




明らかに幅の違う上下線。
海側に張り出した洞門の天井とカーブを描く鉄骨。
現在から見たら明らかに低規格で危険な道の姿がここにありました。
今でこそもう一つの動脈「北陸自動車道」があるものの
当時は親不知を通過する大動脈であり、唯一の道であった国道8号。
もちろん歩行者、自転車等もここを通らなければ移動できません。
現在でも親不知区間を自転車等で走り抜けるには
相応の度胸が必要ですが、この旧道の時代は・・・想像できません。




大型自動車にとってあまりに辛すぎるのは山側のこの幅。
先ほどの写真ではその狭さが伝わりづらかったと思いますが、
入り口部分を見ていただければ分かるでしょう。
なんか詰まってしまいそう・・・






子不知洞門はそのままロックシェードに続いていますが、
その入り口部分には立派な銘板が埋め込まれています。

「子不知洞門」
昭和42年3月20日 竣工




昼間であっても危険度の高い場所だけに
中央の柱にはよくある黄と黒(白くなってますが)のペイントが施され
警告を促していたようです。
それに加えて蛍光灯、(おそらく)回転赤色灯が設置されており、
相当クリティカルな危険箇所であったことが伺えます。
それでも洞門内に突如現れる柱に肝を冷やしたドライバーは
多数いた事でしょう。
柱の下部は多くのクルマが擦ったのか、
角が取れて丸くなっていました。




「極悪」な洞門を抜けるとロックシェード区間となり
まもなく明かり区間となります。
この鉄製のロックシェードも錆び錆びでかなり痛みが進んでいるようです。




ロックシェードを抜けて振り返ったところ。
入り口部分に「深谷1」の銘板が見えます。
想像ですが、この道が現役当時は子不知洞門を挟んで
深谷1と2があったのかもしれません。
(深谷2が現在の深谷洞門?)







崖の上の・・・ポ・・・いや、「道」ですw
洞門区間が終わっても相変わらず山側はしっかりと
固められています。
途中石垣を埋め込んだような変わった
法面も見られました。
薄く消えかかったセンターラインが悲壮感を醸し出しています。





少し進んだところで、道路海側に階段が現れます。
この階段が吸い込まれている部分は
ロックシェッド内を通る鉄路です。





階段を下りていくと線路に突き当たります。
ここは保線用として現役なのでしょう。
ちなみにこの区間の北陸線は複線ですが、
上下線で別の場所を通っているため、単線のように見えています。
写真の線路は北陸線の上り線です。
奥には深谷トンネルの東側坑口が見えています。
この深谷トンネルの西側坑口は前回ご紹介した通り。

ちなみにこの場所ではかつて大規模な災害が発生しています。
当時の新聞記事によれば

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大正11年(1922年)2月3日、大雪による除雪要員農夫200名を乗せた
列車がここに差し掛かった際、大規模な雪崩に見舞われ
客車3両が巻き込まれたことにより90名弱の死者が出た。

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とのことです。余談として事故当時、この付近で
多数の人魂が出没し現地の住民は戦々恐々だったとか。

・・・ウーン ( ̄_ ̄;





さて、旧道に戻ります。
海側にある転落防止用のコンクリ壁ですが、
一定間隔で何かが差し込んであった?ような跡が見られました。
デリネータの設置跡でしょうか。





路面に堆積した土には苔が生え、植物が繁殖しています。
それにしてもこの区間、今現在でもそれほど落石が見られませんでした。
まだ道路設備としては寿命がありそうです。





海側には簡易な階段が。
これも鉄道関連の設備と思われます。





そして今回探索区間の終点へ向かう最後の洞門
勝山洞門(旧)です。






しっかりとしたコンクリ洞門で幅員も十分に取られています。
洞門の山側に意味深に開いた四角い穴。
中を覗くと水は流れていませんでしたが、
どうやら沢水を逃がすための暗渠があり、
その管理をするための出入り口?のようです。
ヘナヘナになった梯子が見えます。





そして洞門を抜けると、ゲートがあり旧道区間は終わります。
子不知洞門以外はあっけなかったですね(^_^;
ゲートの向こうは現道の勝山洞門。
道はそのまま洞門の脇へ上がるスロープに繋がる形になっていますが
ここは例によって正面の洞門は無く、直線的に繋がっていたんでしょうね。

と、いうわけで今回予定していた旧道区間の探索は以上です。
暗くなる前に終われてヨカッタヨカッタ(^_^;

最後に帰路で撮影した夕暮れ〜夜の旧道写真を掲載して、レポ終了とします。



--- 帰路にて ---




勝山洞門上より、夕暮れの子不知高架橋と旧道。




子不知洞門。
朽ちた鉄骨と絡みつく植物は
路面の水溜りに写る対称的なシルエットによって
まるで屍のあばらのように見えます。





闇の洞門。




国道8号の静と動。






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