旧国道13号線 栗子峠

山形側

その6
(栗子山隧道内部)


栗子峠福島側を攻略したおばらさんと管理人は続いて
山形側から隧道へのアプローチに挑むことにした。
疲労困憊の体に鞭打って再び戦いが始まる・・・

明治の隧道、「栗子山隧道」内部へ





↓↓↓米沢砕石付近の地図↓↓↓
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通行日
2004年5月2日
走行レポート


※レポート中の写真をクリックすると大きな写真(640×480)が見れます。




明治の隧道「栗子山隧道」の外観。
竣工は明治14年、既に123歳を数えておられる立派?な、お姿である。




坑口部分の断面は元々”四角”であったため、この形でも違和感は無いはずだが
多くの隧道は断面が「丸い」という半ば常識的な感覚が付きまとって
どうしても自然に出来た洞窟のように見えてしまう。




隧道内部は相当荒れている。
「荒れている」というレベルでは無いかもしれない、既に崩落した瓦礫によって
路面は自然の洞窟そのものとなっている。
入り口部分には現在でも当時の工人達の苦労の跡が刻み込まれている。
右の写真がそうであるが、これは鏨(たがね)で掘った跡に他ならない。
ちなみにこの鏨の堀跡は現在のR13沿いの万世大路記念公園内にも一部移設されている。

・・・・・・・・・・・

隧道自体は当時世界に3台しかなかったアメリカ製の穿坑機を用いて掘られた。
こちら山形側からは穿坑機と手彫りで、福島側からは手彫りのみで掘り進んだのだ。
そうした機械がまだ明治維新からたかだか15年程しか経っていない時代の日本に、
しかもここ東北の栗子山隧道掘削に用いられたのだ、これに驚かずにはいられないだろう。




しかし、なるほど「馬車もゆうに通す程の幅員」というのにも納得である。
人二人が入るには十分過ぎる広さだ。
分かりづらい写真だが、左は隧道の奥を照らしている。
明治の世に空前の規模を持って竣工された栗子山隧道。
延長は約800mで当時としては日本一、現在でもそこそこの規模だろう。
この道を創り上げた”三島”という男はいったい何を考えていたのか。
こんな山深いところにこんな「穴」を堀りあげるとは・・・




振り返ればいびつになった入り口の形がはっきりと分かる。
この写真がこんかいの万世探索で最も気に入った写真である。
路面に積もった瓦礫にはまるでグラデーションのように苔の緑が映え、
荒々しい岩肌と坑口の断面、その3つを照らし出す外界の光。
単純に美しいと思った。
当時の人々もこの光景を見ていたのだろう。
「えっちらおっちら」と峠を登る人、馬。そして辿り着いた隧道。
深い闇の中に見える一筋の光。
光の下に出ればそこはもう米沢の地である。




・・・が現地では無論、↑のような余韻に浸っている暇は無かった。
このような場所に長居は禁物だからだ。
闇を切り裂くライトの先に壁のようなものが見えた。




壁に向かって進む。
左手にはご覧のような支保工のような木材があった。
かつてはこのような支保工で隧道が覆われていたのかもしれない。




そして壁である。
これは「山が行がねが」様でも紹介された、昭和の隧道の内壁である。
隧道の内壁を外側から見ることが出来るという、普通の隧道ならあり得ない作りだ。
これは明治の隧道が冬季、吹雪による雪の吹き込みを防ぐため
坑口を曲げて作ったのだが昭和の隧道では真っ直ぐに作った為に
明治の隧道が途中から昭和の隧道に切り取られたようになっているのだ。
これが明治の隧道と昭和の隧道の坑口が隣り合って存在している原因である。
ちなみに福島側の坑口は明治の隧道を拡幅して作られているため
坑口の位置関係は変わっていない。




ここが最奥地点だ。
これより先は当然だが行くことが出来ない。
ここで明治の隧道は終了である。




と、いうわけで無理を言っておばらさんに記念撮影をお願いした(汗)
こんなところまで入ってしまってごめんなさいm(_ _)m
ご迷惑おかけしました。。。




最奥地点より入り口側。
さて、早く戻ろう。




無事に生還したところで次なる目標物が待ち構えていた。
一連の万世大路探索にもついに終止符が打たれるときが来た。
昭和の栗子隧道、山形側坑口。
いよいよ「旧国道13号線 栗子峠 旧道」フィナーレ!



つづく
(栗子隧道山形側)




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その6 / 最終回



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